物がない、人がいない、街が消えた・・・。昭和20年8月に終結した太平洋戦争は、私たちの周囲から何もかも奪ったように思われた。
焼け野原に呆然と立ちつくしながらも、わが国はまた一から出直すしかないことを感じていた。当時の「日之出鉄工所」(東陽建設工機の前身昭和8年8月創業)はエンジン、モーター、ポンプ等の修理を業とする、いわゆる鍛冶屋と呼ばれる集団であった。会社として蓄積したわずかなものも、大阪大空襲により跡形もなく消え去り、衣食住にこと欠く毎日が始まった。
ただ、親族や身近な人の復員により人だけは確実に増えてゆき、工場復興の気運は高まり、新しいスタートへの夢も膨らんできた。
自主独立とは、様々の意味に使われるだろうが、私たちにとってのそれは、修理とか一時の仕事ではなく安定して製造を続けられること、自分たちで材料を調達し、自分たちで設計し、自分たちの技術で完成させる何か(製品)を見つけることであった。そして、それが国土復興の為のものであれば、なおベストであろう。
必ずやそれは、私たちの組織に安定をもたらし、日本を豊かにするだろう。
大林組様から鉄筋加工機の話が舞い込んだとき、私たちがこれに飛びつくまでに、さして思案する必要はなかったように思う。街がなくなったのだから創り直すしかない。木の家が焼けてしまったのだから、鉄とコンクリートのビルを建てるだろう。
ひょっとしたら・・・・・・
取り組みへの決意は早かったものの、何もない状態から前例のないものを創りだすのはむずかしかった。月日はどんどん過ぎるが、製品は進まない。夜眠っている時ふと思いつき、鉄を削ったり、切ったり、ひっつけてみたりした。焼入れ作業も知識はゼロだったが、とにかく自分たちでやってみた。試行錯誤を繰り返し、やっと第一号機が完成したのは約2年後であった。
心血をそそいで完成した加工機は、すぐに沖縄の現場へ出荷されたが、途中、輸送船の海難事故(機雷に触れ沈没したらしい)により、太平洋の海底へ今も沈んでいる。しかし、悲しむ時間はなく、すぐに2号機・3号機の製作が急がれた。復興に向けて時代が拍車をかけていた。
太平洋戦争に沈んだ1号機(切断機と曲機のセット)の代わりに急いで2号機を制作し、大林組に納めたときにはすでに心は決まっていた。
日之出鉄工所(東陽建設工機の前身)は、鉄筋加工機に賭けてみよう、俺たちにはコレしかない!!目は輝き、身体中の血が滾り始めた・・・・・・というようなシーンはあったかどうかはわからないが、ここから鉄筋加工機の専業メーカーとして歩み始めたのは確かである。厳密にいうなら、受注生産から見込み生産へ移行するわけである。
当然のことであるが、鉄筋加工機に賭けた以上、1号機より2号機、2号機より3号機と品質を上げていきたいし、何よりも1台つくるのに1年もかかっていては話にならない。定かではないが、3号機あたりで製作期間約2ヶ月という見当であった。つくって、売って、そのお金でまたつくる。これを繰り返しながら研究を重ね開発を続ける。
設備もどんどん充実させていく。完成した3号機を前にしたみんなの頭の中には、メーカーとしての理想像が次々と浮かんできたのだが・・・、本当は売れるかどうか・・・誰もが不安を感じていた。
いく度の大地震も然りだが、復旧というのはまず輸送ルートから始まる。当時でいうなら国鉄であり、次は駅の周辺になる。人々も駅へ行けば何かあるという期待感で集まってくる。消滅した街は駅前から再興されるのである。
さて、日之出鉄工所の販売方法であるが、まず製品を駅止めで送る(もちろん都会の駅)、営業担当者はその駅へ着いて電話帳を調べ、建設会社や鉄筋工事会社らしきものを探す。随分とあてのない話のようだが本当のことである。金がなかったので、とりあえず大阪から片道キップだけ買って目的地(駅)へ行く。
売れるか、売れないかは神様だけが知っている。昭和24年ごろの懐かしい話である。神様が微笑んでくれたかどうかは次回で・・・
一台が約10万円。切断機と曲機のセットで17―18万円。これが当時(昭和25年頃)の製品価格である。安いか、高いか、もちろん超高価な機械であった。
例えば、鉄筋の加工職人(人力)の日当が100円ぐらいであったことを考えれば、買う側としても相当の決断を要したと思われる。ところが、これが価格以上の威力を発揮する。10人かかっても、なかなか曲げられない太筋でも一瞬に加工してしまうのだから、当時としては大発明の部類であり、機械の値段よりも、その能力に驚いたという。そろばんしか知らない人がコンピュータの出現に腰を抜かした程度と言えば大袈裟かもしれないが、建設業界にとっては、実際、目を見張る機械であった。
昭和25年6月に始まった朝鮮戦争、その影響は日本に特需景気をもたらす、活気づいた市場は、復興への道を後押しする。日の出鉄工所の命運を賭けた鉄筋加工機に、時代は味方してくれたようである。
当時、10階建てのビルといえば、これはもう高層のうちに入るだろう。鉄筋工事でいえば、1階(地下)から3階くらいまでが太筋工事でトン数も伸びる。上の方といえば、職人が鉄筋(中―細筋)を肩にかついで上がり組んでゆく。時間の割にはトン数が伸びない仕事である。太筋を中心にした基礎工事の時間を大幅に短縮した切断機と曲機は、まさに建設業界のエースだ。高価な機械を思い切って購入した会社には、基礎工事の依頼が集中した。短い時間で大きな収益、もちろん急成長であった。「わしらを男にしてくれた」と感謝された時は、本当に嬉しかったという。
片道キップで、売れるまでは会社に帰れなかった苦しい営業も次第に楽になった。そして製品の評価が高まるにつれて、今度はお客さんの方から声がかかるようになる。往復の交通費、宿泊、食事の面倒までみてくれてである。